オードリーヘップバーンといえば『ローマの休日』や『ティファニーで朝食を』などで有名なイギリスの女優さんですが、実は彼女にはもう一つの顔があったのをご存知でしょうか?

そう、それはスパイという顔です。

 

11月30日(水)に放送される『実録 THE スパイ』で特集されるオードリーの生涯について簡単にまとめてみました。

 

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オードリーヘップバーンとは?

 

オードリー(本名はオードリー・キャスリーン・ラストン)は1929年5月4日にブリュッセルの19の基礎自治体の一つ、イクセルに生まれます。

 

幼少期にはベルギーやイングランド、そしてオランダのアーネムに在住していました。

当時オランダはナチス・ドイツに占領されていたため、オードリーという名があまりにもイギリス風なのを心配した母エラが、「エッダ・ファン・へームストラ」と名乗らせていた事もありました。

 

オードリーは5歳の頃からバレエを始めており、1948年にイギリスバレエの基礎をつけたといわれるワルシャワ出身のマリー・ランバートという女性にバレエを習うため、ロンドンへと渡ります。

 

キレイなだけではなく、努力家だったようですね!

 

そしてウエスト・エンドの舞台に立ったオードリーはイギリスで数本の映画に出演、その後ブロードウェイ舞台作品の主役を演じ、1953年にはあの「ローマの休日」でアカデミー主演女優賞を受賞します。

他にも「ティファニーで朝食を」や「マイ・フェア・レディ」など多数の映画に出演。

アカデミー賞(主演女優賞)・英国アカデミー賞(主演女優賞)・エミー賞(情報番組個人業績賞)・グラミー賞・ゴールデングローブ賞・トニー賞など、多数の賞を受賞しています。

 

しかし晩年はほとんど作品に出演せず、1989年公開の映画「オールウエイズ」(原題:Always、スティーブン・スピルバーグ監督、リチャード・ドレイファス主演)に天使ハップ役で久しぶりに出演したのが最後の映画出演作品となった。

「オールウェイズ」公開当時、映画館で作品を見ましたが、「物語上の重要な役」で強く印象に残っています。主人公と語り合うシーンは「往年の映画ファンが歓喜」だったみたいです。

 

晩年の活動は1945年より参加しているユニセフでの活動に献身していたようで、1992年には、ユニセフの親善大使としての活動が認められ、大統領自由勲章を授与されています。

こちらの勲章は、アメリカで文民に与えられる賞としては最高名誉ともいえる勲章なんだそうです。

 

さすがです。

 

しかし1993年、この賞を授与された一ヶ月後に、オードリーはスイスの自宅で病気により死去します。

オードリーの病気は虫垂癌で、享年63歳でした。

 

オードリーの人生はとても輝かしくみえますが、実は彼女には非常に過酷な過去がありました。

オードリー・ヘップバーンの生涯

オードリーの父ジョゼフはオーストラリア・ハンガリーのボヘミアの出身で、貿易商を営んでいました。

そしてオードリーの母であるエラと出会う前は、オランダ人女性コルネリアと結婚していました。

 

オランダの貴族だったエラも同じ貴族のヘンドリクと結婚していましたが1925年に離婚、1926年にジョゼフと再婚します。

(エラはヘンドリクとの間に2人の男の子をもうけています)

 

そして1929年にオードリーが生まれます。

オードリーはベルギーで生まれますが、父の関係でイギリス、そして母の実家がオランダだった事からベルギー・イギリス・オランダの3カ国を頻繁に行き来する事となります。

そのためオードリーは英語・オランダ語・フランス語・スペイン語・イタリア語を話すことができたようです。

 

オードリーの父と母はイギリスのファシスト連合に参加しており、父ジョゼフはナチズムに傾倒していたようです。

そしてジョゼフは子守の女と関係を持ち、家族を捨てて出ていきます。

しかしその後父と再会したオードリーは、ジョゼフが死去するまで経済的な援助をしたといいます。

 

自分達を捨てた父親の面倒をみたオードリー。

困っている人を放っておけない性格なのかもしれませんね・・・。

 

ジョゼフと別れた後エラとオードリーはイギリスのケントへと移住しますが、ドイツからの侵略を免れるために1939年に再びアーネムへ帰郷します。

1939年から6年間、オードリーはアーネム音楽院に通い同時にバレエも習います。

しかし1942年、エラの姉と結婚していた伯父のオットーが反ドイツのレジスタンスに参加していたとして処刑されます。

そしてオードリーの異父兄弟(エラの子供)もひとりは強制労働収容所に収容されます。

このような出来事をオードリーはどのように受け止めていたのでしょうか・・・。

スパイとしてのオードリー

第二次世界大戦中オードリーは重度の栄養失調に苦しみます。

1944年頃には名のあるバレリーナになっていたオードリーは、秘密裏に公演して稼いだお金を反ドイツのレジスタンスに渡していたといいます。

他にも手紙を渡したりするなど抵抗軍に協力したため、5年間地下の隠れ家で生活し草やチューリップを食べて過ごしていたといいます。

そのため連合軍が来た時オードリーはガリガリにやせ細っていたそうです。

結婚(旦那)は?

オードリーは1952年に舞台で知り合ったジェイムズに一目惚れし、婚約までいきます。

しかし2人の仕事があまりにもすれ違ってしまうため、オードリーの判断で破局します。

他にもミュージカルのプロデューサーのマイケルや、ローマの休日で共演したグレゴリー、既婚者だったハンフリーなどと噂になったりしましたが、いずれも結婚に至ってはいません。

その後グレゴリーのパーティで知り合ったアメリカの俳優メル・ファーラーと後に共演。

1945年に2人は結婚しますが、1986年に離婚します。

その後オードリーは船旅で知り合ったイタリアの精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと1969年に結婚します。

この時オードリーは40歳、アンドレアは30歳でした。

しかし双方の不倫により、1982年に二度目の離婚。

離婚の寸前に友人の紹介で知り合ったオランダ人俳優、ロバートと暮らし始めますが結婚はしていません。

オードリーはロバートとの9年間に渡る生活を、「人生で最良の日々」と語っています。

 

とても恋多き女性だったようですね。

ただあれだけキレイだと、周りもほっとかないでしょうね!

子供や孫は?

オードリーには2人の子供がいます。

2度の流産を経てメルとの間に生まれた息子ショーン。

さらに2度の流産。

そしてアンドレアとの間に息子のルカが生まれています。

ですがその後もオードリーは流産します。

ちなみにオードリーの孫はエマ・ファーラーで、現在モデルとして活躍されています。

 

(エマ・ファーラーの画像はこちら)

 

非常に美しい女性ですね。

オードリーの面影がありますね!

まとめ

オードリーはあの有名なアンネの日記のアンネ役のオファーが来た時、頑なに断ったといいます。

それはオードリーがアンネと自分を重ね、過去のトラウマを思い出す事を避けたかったのではないかといわれています。

波乱万丈な人生を送ったオードリー・ヘップバーン。

その美しさと共に、みんなの記憶に残り続けていく事でしょう。